Livingstone and Botswana No.1(リビングストンとボツワナ(その1)・・コロベン(Kolobeng)訪問)

訪問日:Dec 7, 2008

ボツワナに赴任して約2か月経ち、少し、郊外へ出かけてみようということで、タマハ(Thamaga)へ行く途中にあるリビングストンが5年間暮らした場所といわれる”Livingstone Memorial”へ行ってみました。

アフリカといえばリビングストンが探検したところではないかと思い、子供向けの伝記が見つかったので、ボツワナに行く前に買っておきました。

その本によれば、デービッド・リビングストンはイギリスのスコットランド生まれで、父ニールは貧しい茶の行商人でしたが、キリスト教の信仰がとても厚い人でした。母アグネスも働き者で、健康で、明るく暖かい家庭でした。デービッドは、人一倍努力家で、朝早くから夜八時まで働き、家に帰っても12時過ぎまで本を離さないほどの勉強好きで、キリスト教への関心も年と共に強まっていったそうです。19歳になると、自分で稼いだお金で大学に入り、医学とギリシャ語、それに神学の講習も受けました。20歳になった頃には、「キリストの愛の精神で、人々の苦しみや悲しみを少しでもやわらげるため、自分の一生を捧げよう」と決心し、医療宣教師となるため、宣教師見習いや、医学の勉強に励み、27歳で内科と外科の医師免状を取得しました。そして、南アフリカのクルマンで伝道所を開いていた宣教師のロバート・モファットに大きく影響され、アフリカ伝道を決意しました。リビングストンはケープタウンからクルマンに入ってモファットのもとに行って活動を始める中で、モファットの娘メアリーと結婚しました。その後、さらに奥地をめざすことになり、途中、おとなしい部族(バカトラ族)と親しくなります。その部族の人々は大変臆病で、人食いライオンを怖がっており、リビングストンに退治してくれるように頼んできました。リビングストンはライオン退治に行きますが、ライオンの反撃に合い、なんとか仕留めたものの左の肩をかまれて九死に一生を得ました。現地の族長の信頼を勝ち得ることには成功しましたが、左手は不自由になり、医者としての手術はできなくなりました。

その後、リビングストンはケープタウンから1500Km 北上した村で伝道所を作ろうとしたと書かれていたので、物差しでケープタウンとビクトリアフォールズを直線で結び、1500Kmあたりの場所を調べてみると、丁度、ボツワナの首都ハボロネのすぐ近くになりました。そこで、ボツワナの地図をよく見てみると、、、、ありました! ありました! ハボロネから30Kmほど西のあたりに、「Livingstone Mission」と書かれた星印が見つかりました。そこで早速、家内と車で行ってみることにしました。

Livingstone Memorial

ハボロネからタマハに向う快適な道路(A10)を約20分程行くと「Kolobeng River」と書かれた小さな看板が見つかり、そのすぐ先に「Livingstone Memorial」という看板がありました。

地図によると、そのすぐ先に左に曲がる道があるはずですが見当たりません。更に先へ行ってもそれらしき道はないので引き返してよく見てみると、鉄パイプの扉で閉じられた小さな道の入り口がありました。
丁度、その道に入ろうとしているトラックがいたので聞いてみるとこの先とのこと、扉をあけて貰って一緒に中へ入って暫くいくと、そのトラックの運転手が、ここだよと教えてくれました。またもや左手に鉄パイプの門があり、閉じられています。

先ほどのトラックの運転手が、「車の警笛を鳴らせば番人が降りてくるよ」と教えてくれたので、鳴らしてみると、丘の上から一人の男がおりてきて門を開けてくれました。案内してもらえるかと聞くと、OKとのこと。彼に案内してもらって丘の上まで車でいくと、小さな小屋がありましたが、それは番人の小屋でした。

その先に石が四角く並んだ小さな平地があり、そこがリビングストンが住んでいた家の土台だとのことでした。粘土でできた家自体は、壊された後、風化して、今は残っていないとのこと。

次の写真は、1908年の状態です。(ボツワナ国立博物館のリーフレットより)

次の写真は、建築当時の想像図です。(The Livingstones at Kolobeng 1847-1852、Janet Wagner Parsons著 より)

教会の礼拝は、こんな様子だったそうです。(The Livingstones at Kolobeng 1847-1852、Janet Wagner Parsons著 より)

さらにリビングストンの娘さんのお墓があるというので、もっと先に行ってみると、狭い平地が四角くロープで囲われており、石ころを幾つか積んで小さな山のようにしたものが4つほどありました。そのうちのひとつが生まれてまもなくして亡くなった娘エリザベス(4人目の子供)のお墓とのことでしたが、住居跡にもお墓にも説明の看板はなく、知らなければただの石ころに見えます。

全体の配置は、次のようになっています。

番人小屋に戻って、その番人と話をしました。訪問者は一日に数人来るか来ないか程度。毎日、近くの村から40分ほど歩いて通っており、昼は食事に戻るので毎日2往復しているとのこと。私たちが帰ろうとすると、昼飯を食べに家に戻りたいので車に乗せていってくれないかと言ってきたので彼の村まで送ってあげました。

番人の少年が住む村の様子。貧しいながら家畜も多く、豊かに暮らしているようです。この人たちの先祖は、リビングストン一家と共に暮らしたことがあるのではないでしょうか。

後日、貰った解説書をじっくりと読んでみると、伝記には載っていなかった事実が詳しく書かれており、ボツワナにとって、リビングストンは大変重要な影響を与えていたのだと、改めて感銘を受けました。

要約すると、

「デビッド・リビングストンと妻のメアリーは1847年に2人の小さな子供たちとわずかな荷物を積んだ水牛のワゴンに乗ってコロベンにやってきた。リビングストンはスコットランド生まれ、メアリーは有名な宣教師モファットの娘でアフリカ生まれであった。

(挿絵は The Livingstones at Kolobeng 1847-1852、Janet Wagner Parsons著 より)

リビングストンはボツワナでその地区の族長セチェーレと親しくなり、セチェーレはリビングストンを大変尊敬してキリスト教に改宗した。二人は意気投合して、干上がらない川といわれたコロベン川のほとりに教会、学校、住居を設け、バクウェナ族の人達を献身的に教育した。

(人物画は、The Livingstones at Kolobeng 1847-1852、Janet Wagner Parsons著 より)

リビングストンは、医者としての治療やお産への立会い、聖書の教育はもちろんのこと、レンガ積み、鍛冶、溶接、農業栽培、銃の使い方や修理法、などを教えた。妻のメアリーは夫よりもセツワナ語を流暢に話し、パンを焼き、着物を縫い、石鹸やろうそくが途切れたら自分で作り、バクウェナ族の子供たちに読み書きや簡単な計算、歌、を教え、女性達には裁縫を教えた。

メアリーは一生懸命働きすぎて、疲労のあまり3人目の子供を妊娠した時に倒れ、それ以後、教育することはできなくなってしまった。その上、4年間、殆ど雨が降らず、収穫がなかったので、飢えと渇きにくるしんだ。いつまで経っても豊かにならないために、住民はリビングストン達を非難し始めた。
さらに、4人目の子供である生まれたばかりの娘エリザベスが、栄養失調と病気のために死んでしまった。

(幼い娘エリザベスの墓、The Livingstones at Kolobeng 1847-1852、Janet Wagner Parsons著 より)

一家は失望のもと、ボツワナを去ることになった。リビングストンは家族をイギリスに送った後、新たな展開をめざして北へ向うことになる。ボツワナでは飢餓と非難に苦しみ、族長セチェーレ以外はだれもキリスト教に改宗せず、その時点では大失敗であった。
しかし、その後、不思議な展開となった。当時、勢いのあったボーア人が攻めてきたとき、セチェーレの部隊はリビングストンから教わった銃を使って応戦し撃退した。60人以上が殺されて戦いとしては負けたものの36人のボーア人を殺すことに成功。ボーア人は、それまでは弱いと思っていたボツワナ人が意外に強いことを思い知り、その後再び攻めてくることはなかった。

(ボーア人の攻撃で破壊されたリビングストンの家: The Livingstones at Kolobeng 1847-1852、Janet Wagner Parsons著 より)

その戦果を知ったバクウェナ族の人々はセチェーレのもとに集まり、モレポローレに首都を築いた。また、リビングストンとの親交と、彼から教わったヨーロッパ的考え方をベースにしてイギリスとも親しい関係を築くことができ、ベチュアナランド(ボツワナの以前の呼称)をイギリスの保護領にしてもらうことに成功して他国の侵略を防ぎ、その後のボツワナ共和国として独立するための大きなステップを踏み出した。(まさに、“その時、歴史は変わった!”)

一方、リビングストンは北へ向った後、ヌガミ湖を発見、その後、ビクトリアフォールズ(下の写真)を発見したアフリカ探検家として世界的に有名になった。

探検家としてのリビングストンの偉業は世界中に知られているが、ボツワナで過ごした悲劇の5年間と、彼がボツワナにもたらした重要な意義については殆ど知られていない。

要約すると以上ですが、興味のある方は、(その2)で説明書の全文訳を掲載しましたので、読んでみてください。

現在のボツワナを見てみると、リビングストン・ホスピタルとか、リビングストン・カレッジとか、彼の名を持つ施設がいくつか見受けられ、リビングストンが尊敬されていることが分かります。また、キリスト教が主な宗教となり、クリスチャンの数も増えて多くの教会が建てられ、リビングストンがボツワナに与えた影響は非常に大きいものだったと実感できます。

次の写真は、モレポローレにあるリビングストン・ホスピタル。

また、コロベンの近くのマニャーナというところには、「Livingstone Tree(リビングストンの木)」と呼ばれる大きないちじくの木があります。この木の下でリビングストンが聖書の話をしたり、読み書きを教えたりしていたそうです。

記事中の挿絵と白黒写真は、「The Livingstones at Kolobeng 1847-1852 (Janet Wagner Parsons著)」という本、および、「KOLOBENG – Home of the Livingstones and the Bakwena 1847-1852」というボツワナ国立博物館作成のリーフレットから参照しました。