Livingstone and Botswana No.2(リビングストンとボツワナ(その2)・・KOLOBENG Home of The Livingstones and the Bakwena (1847-1852)の日本語訳

訪問日:Dec 7,2008

Livingstone and Botswana No.1で紹介しましたKolobengについて、ボツワナ国立博物館作成の解説書を日本語訳してみました。リビングストンのコロベンでの5年間が詳しく書かれています。

タイトル:
KOLOBENG(コロベン)
Home of The Livingstones and the Bakwena(1847-1852)
リビングストン一家の住居とバクウェナ族(1847-1852)

場所:
Kolobeng Mission(コロベン宣教団)の廃墟は、Gaborone(ハボロネ)からThamaga(タマハ)-Kanye(カニエ)道路を車で30分程走ったKweneng地区にある。そのミッション跡は、Kumakwaneを過ぎ、Kolobeng(コロベン)川を渡ってすぐ左手にある。

歴史:
デビッド・リビングストンと妻のメアリー・リビングストンは、1847年に、2人の小さな子供たち(ロバートとアグネス)とわずかな荷物を積んだ水牛の荷車に乗ってコロベン(Kolobeng)にやってきた。
デビッドはロンドン宣教会に属するスコットランド生まれで、メアリーは、有名な聖書翻訳者であり、ボツワナ人の信仰の友でもある、クルマン宣教団のロバート・モファット師の娘で、アフリカ生まれであった。

彼らは、バクウェナ(Bakwena)族へのキリスト教宣教のために、他の宣教団よりもアフリカ奥地へと入っていった。互いに深い尊敬の念を抱いた族長のSechele(セチェーレ)とリビングストンは、「永遠に干上がらない川」と言われたコロベン(Kolobeng)川のほとりに教団の住居を定めた。

マバルウェ(Mabalwe)とポール(Paul)はクルマンで改宗したボツワナ人で、建築や福音伝道を手伝った。バクウェナ(Bakwena)族の労働者が大勢雇われ、族長セチェーレは 100 人以上の男たちをボランティアとして集めた。そして、当時バケツとして使われていた動物の皮とか鍬ではなく、亀の甲羅を使って灌漑用の水路やダムを造った。また、教会は木の棒や粘土やわらを使って造られた。更に、ボツワナでは初めての直立した壁のある家がクルマンの従者たちや族長のために建てられたが、彼らはその新しい建築物に誇りを感じていた。

リビングストン一家は彼ら自身の家が出来るまで1年間、葦ぶき屋根のハットに住んでいた。間取り図は残っていないが、研究によると、それはクルマンの家のレイアウトに近いものだったとのことである。その家は広く、涼しくするために葦ぶきの天井は高く作られていた。リビングストンはその3年前にライオンと戦ったときに左手をやられていたので重い石の家を作ることはできず、石の土台の上に日干しのレンガの壁を立てて家を作った。

彼はイギリスでキリスト教神学と医学を学んできたが、今や、困難な経験を通して、レンガ積みや大工、鍛冶、溶接、農業栽培、石の舗装、銃の修理、等、多くの技術を習得していた。

メアリーはセツワナ語を夫よりも流暢に話し、フロンティア精神を持っていろいろな技術を活用した。彼女は家族のパンを焼き、着物を縫い、土の床をきれいにし、クルマンから支給された石鹸やろうそくが途絶えた時は自分でそれらを作った。学校も兼ねていた教会ではバクウェナ族の子供たちに読み書きや、簡単な計算、歌、等を教え、その上、毎日洗濯したきれいな服装で現れ、女の子や女性達には裁縫を教えた。

メアリーはたくましい女性で多くのスキルを身につけていて、夫および多くの人々への大きな愛情と強い責任感から、際限のない仕事に追われていた。しかし、一日の長時間にわたる労働は心身を疲れさせ、1年後に彼女が3回目の妊娠をして倒れたときには、教えることをあきらめざるを得なかった。トーマスと名づけられた赤ん坊の世話と、栄養失調のためやせていてしばしば病気にかかる上の子供たちの面倒は大変であった。

4年間、雨が殆ど降らず、収穫がなかった。しかし、これらの試練に対してリビングストン一家は、外部からの最低限の援助だけで、よく耐え忍んだ。バクウェナ族の人達も、ミッションからは、ほんの少しの援助金しか貰えなかった。メイズの蓄えがなくなった時、彼らは草の根を食べて生き延びた。飢餓は大変激しいものであった。

それでもリビングストンは引き続き、聖書を教え、病人を診察し、難しいお産にも立ち会った。しかし、人々は自分たちの災難の故にリビングストンたちを責め立てた。彼らは、リビングストンがセチェーレに聖書を読むことを教えたために、セチェーレが雨乞いの仕事をしなくなったことを責めた。セチェーレが妻を一人だけに決め、他の妻たちとの結婚を解消し、宣教団に洗礼を受けたいと申し入れた時、人々は抗議し、彼を族長の座から引きおろそうとした。

リビングストンは山のような問題をかかえていた。バクウェナ族の人々は誰も改宗しようとしなかった。コロベン川は干上がってしまった。トランスバールのボーア人は、バクウェナ族が銃を保有したことに腹を立て、攻め込んでこようとしていた。リビングストンは失望し、ミッションを更に奥地へ移動させようと思い、再び動き出した。

リビングストンとウィリアム・コットン・オズウェルは1849年に北への探検に取り掛かり、ヌガミ湖にたどりついた。そこでリビングストンの探検家としての意欲が燃え上がった。翌年、留守中にボーア人の襲撃があるといけないと思い、リビングストンは家族を連れて戻ってきた。しかし、その時その小さな群れは、今までに経験したことがないほどの飢えと乾き、マラリアと極度の疲労にさいなまれた。

彼は更なる奥地へ行くことをあきらめて帰路につき、メアリーが4人目の赤ちゃんエリザベスを出産するのになんとか間に合うよう戻ってきた。メアリーの状態は苦しい生活の故に極度に悪くなっており、何回も発作で苦しんだ。彼女はなんとか回復したが、生まれた赤ちゃんは体重が非常に少なく、呼吸器系の病気に感染して死んでしまった。これはリビングストンの家族にとって計り知れない痛手であった。何年も後になって、リビングストンは、そのかわいい青い眼をした子供の死んでゆく叫び声はずっと頭の中から消えなかったと書いている。

リビングストン一家は極貧の状態で病人を抱えていた。メアリーの母は、彼らを回復させるためクルマンに連れ戻そうと、危険な旅をおかしてコロベンにやってきた。彼女はリビングストンの家族に対する扱いを責めたが、リビングストンは反対にクルマンへの依存度を最小にするため更に北へ進もうという決心を強くすることになった。

1851年に3度目であり最後でもある北への旅へと出発した。生き延びるための水のありかを探るためオズウェル(Oswell)が先を行った。メアリーはモファットの娘ということで部族の間では尊敬されており、このことも今回の探検がうまくいくと期待できるひとつの要因であった。リビングストンはついにバコロロ(Bakololo)王国にたどりついた。そこは緑も水も豊富にあるザンベジ川沿いの広い平地にあり、多くの人が住んでいたが、悲惨な奴隷売買が行われている場所でもあった。リビングストンはこの光景を見て、奴隷売買をやめさせるために、更に奥地へ進んで、キリスト教を広めなければならないという決心をした。

その一方、彼の家族は貧しさの中で疲れきっていた。メアリーはウィリアムという男の子を生んだが、今回は家から遠く離れた牛車の中でであった。リビングストンは家族が負っている苦難と避けられない批判を思い知らされた。また、彼は、大きくなった子供たちが英語を殆どしゃべったことがなく、教育を受ける機会もなかったことをずっと気にかけており、残された方法は家族をイギリスに送ることしかないと感じた。

そこで、子供たちは母親と一緒にケープタウンからいまだ知らない国イギリスへと旅たった。それは、彼らが父とイギリスで一時的に再会する数年前のことであり、その後は二度とアフリカで再会することはなかった。家族は二度とコロベンに来ることはなかった。

1852年に族長セチェーレは彼の民を現在のマニャーナ(Manyana)に近いディマウェ(Dimawe)に連れて行った。そこは、数マイル上流にある比較的安全なところであった。その時、ボーア(Boers)軍が攻撃してきた。その戦闘の結果、ボーア軍はのバクウェナ族とその仲間を60人殺し、200人捕獲した。一方、バクウェナ軍も銃で応戦し、36人のボーア人とその仲間を殺した。これは、ボーア軍がボツワナ人の強さを初めて思い知った時であった。ボーア人の部隊はコロベンにあるリビングストンの空家も襲って破壊した。その一ヵ月後の様子をある旅行者が書き記している。「薬のビンが散乱し、本はバラバラに裂かれて丘の上で吹きさらされ、窓枠は蹴破られ、内壁も押し倒され、家具は持ち去られていた。」

コロベン・ミッションの重要性

コロベン・ミッションは、最初の、教会、学校、キリスト教への改宗者、ヨーロッパ医学の医者、灌漑用水、および、西洋の建築様式をボツワナにもたらした。

しかし、設備や技術、生活改善などの影響よりも文化の壁は大きく、族長セチェーレ以外は誰もキリスト教に改宗しなかった。結局、リビングストンのミッションはキリスト教の宣教には失敗したのであった。

しかしながら、リビングストンとバクウェナ族の相互に及ぼした影響は大きく、ボツワナの国のその後の発展には欠かすことのできない決定的な分岐点となった。その後の多くの宣教団体は商人との交渉を助け、バクウェナ族はリビングストンと面識のあったことを通して銃を調達し武装した。ディマウェでの戦いでは負けたものの、かなりのボーア人を殺したことは、他のボツワナ人には勝利とみなされた。一方、ボーア人達もボツワナに侵略すると強い抵抗にあい、彼ら自身への危険があると気づくようになった。ボーア人との戦いの結果、多くのボツワナ人がセチェーレに従うようになり、数年後、現在のモレポローレの近くに首都が作られたときにはセシェーレの従者は8倍にもなっていた。リビングストンとの友好関係およびヨーロッパ的考え方を取り入れたことにより、セチェーレはイギリスとの同盟を結ぶことができ、結果として、ベシュアナランドをイギリスの保護領(Bechuanaland Protectorate)とすることに成功し、ボツワナの共和国としての独立に大きく貢献することになった。

リビングストンにとっては、コロベンはアフリカ内部への展開の希望を与えてくれた場所であった。しかし、厳しい環境、悲劇的な出来事、ボーア人の脅威、より広い影響をアフリカに与えたいというリビングストンの決意、などによってリビングストン一家はボツワナから出て行くことになった。1847年から1852年の五年間はリビングストン一家にとっては悲劇の年であった。しかし、一世紀以上後の現在、探検家としてのリビングストンが達成した大きな成果に比べ、コロベンでの出来事とその重要な意味については殆ど世に知られていない。

遺跡について

1930年代までは粘土のレンガで作られた壁の残骸が残っていたが、残念ながら、リビングストンが住んでいた当時の施設の記録も絵も残っていない。発掘調査の結果、泥と葦で作られた天井の痕跡が発見され、壁の幾つかは花模様の壁紙が貼られていたことが分かった。

石で丸く縁取られた墓が、最近になってリビングストンの娘、エリザベスのものであることが判明した。他の二つの墓は探検家のアルフレッド・ドルマン(Alfred Dolman)と彼の従者ジョン・コールマン(John Coleman)であると言われている。リビングストン一家がケープタウンに向っている間に、彼らはコロベンから数マイル北のところで、おそらく、他の旅行者によって殺された。ライオンに食われたと思われるわずかな遺体は、おそらく、ポール(Paul)とマバルウェ(Mabalwe)によって埋葬されたものと思われる。4番目の墓はいまだ誰のものか分かっていない。

ダムと灌漑用水の位置は不明である。族長セチェーレの家の位置も不明であるが、現在は農地となっているところに建っていた教会の西側にあったものと思われる。

追記

最初の解説書はボツワナ・ソサイアティ(The Botswana Society)の承認のもとでJanet Parsonsにより調査され書かれた。多くの協力者がいたが、そのうちにはエッシャー・ムランガ(Esther Mulanga)と「クマクウェンのリビングストンの車」(Livingstone Koloi of Kumakwane)がいる。この解説書はナショナル・ミュージアムの考古学部門で編集され作成された。

遺跡遺品法 59:03章

この遺跡はナショナル・モニュメントに指定され、遺跡遺品法によって保護されている。訪問者は遺跡の上を歩くこと、遺品を手に取ること等は禁じられており、どんな石や物や植物も法律の保護下にあり、壊したり取り除いたりすることは禁じられている。将来、ここに遺跡を記念するミュージアムが建設される予定である。

近くにはピクニックサイトが設けられている。使用後はきれいに清掃していって頂きたい。

ナショナルミュージアムとアートギャラリーはナショナルミュージアムとボツワナ全体の遺品遺跡を管理している。1902年以前のすべての歴史的なもの、あるいは、有史以前の現存する遺品を含むすべての場所は自動的に法律のもとで保護されている。

(ボツワナ国立博物館の解説書より)