イザヤ書 53章

イザヤ[ 53 ]
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

この苦難は神の御手より出たものです。しもべには責められるべきところがないので、この苦難を耐え忍ばれたのは、ご自分のためではなく,他の者たちのためであることが明らかです。同時に、このしもべを信じて、仰ぎ見る者たちが、このしもべの受けられた苦難によって、救われることが、意識されています。
主が不当な、死に至る苦しみを受けられた時、これは神の救いのご計画であり、罪悪を滅ぼして、完全な義をもたらすための、神の方法であることを、神の民は悟るようになるのです。これによってのみ、多くの者が自分の不義の道を離れ、神の平安と永遠のいのちの道に立ち返るようになるのです。
1~9節は三つに区分できます。
1~3節、拒否された方
4~6節、身代わりとなって苦しみを受けられた方
7~9節、贖いの小羊
動詞の時制に注意してください。

1~3節、第二の声、しもべの生涯・・・私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
良心の目覚めた人が答えています。自分自身の目で見た判断によって、自分の悟りや良心を欺いて、だましていたことを認め、すべての人が、主のしもべの十字架の苦難に無関心であったことを認め、罪を告白しています。
このように良心が目覚めた人が、「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(53:4~6)と告白します。
これは、私たちの罪の受ける刑罰として、神のさばきの御手が、主のしもべの上に下されることを語っています。主のしもべの死は、彼の罪のためではなく、私の罪のためであることを語ったのです。
1節、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」しもべの苦難の身代わりの贖いを、だれが信じただろうかと訴えて、悔い改めの告白しています。また、だれがそんなことを信じることができるだろうかという疑惑もほのめかしています。
メシヤについて宣べられましたが、多くのイスラエル人はイエスがメシヤであることを信じなかったのです。メシヤを信じた者は、ごくわずかです。
イザヤは、メシヤを「ヤーウェ(主)の御腕」とも呼んでいます。イザヤは、これまでにこの御腕について語ってきました。
御腕は神のために統治の働きをしてきました(40:10)。
異邦人の頼みとなってきました(51:5)。
異邦人を救い出し(51:9)、救いをもたらすお方だと宣言しています。
この53:1では、「御腕」は、「ヤーウェのしもべ」、メシヤと同じお方だと明らかにしています。
2節、彼の外見は、卑しい
「彼は主の前に若枝のように芽生え、」神が見る場合と、人が見る場合を示しています。このような直喩によって、永遠の若々しさを示していますが、人々はこのようにしもべを見なかったのです。
「砂漠の地から出る根のように育った。」人々はしもべの美しさに盲目です。そして「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけものにされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(2~3節)という言葉にすべてが要約されています。
ここではイスラエルが主イエスを拒んだ、不信仰の理由を記しています。
それは、第一のご降誕の時には、主イエスには、人々の目を引く何の要素もなかったからです。誕生も、かなり貧しい家庭に生まれました。これは、イザヤ書11:1の再確認です。
2節後半、それだけでなく、主イエスの容姿には特別に人を引きつける要素もなかったと預言されています。これによると、画家たちが描いて来た、主イエスの個性的な姿は違反していると思われます。イスラエル人たちは、主イエスの姿に特に引きつけられるような魅力を感じなかったことを表わしています。
3節、しもべは、軽蔑され、、その生涯は拒絶と苦難に満ちています。
しもべは、人々から顔を背けられ、王として受けるはずの敬意を受けたことはなく、嘲られ、のけ者にされました。
「病を知っていた。」この病は、らい病です。これはメシヤが罪を負ってくださることです(コリント第二5:21)。

4~6節、第三の声、しもべの身代わりの苦難・・・私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
しもべの特徴は、苦難を受けることですが、その苦難は代償的で、彼は、他人の罪のために、身代わりとなって苦難を受けられるのです。
4節後半、「だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」人々は、しもべが自分たちの罪の身代わりとなって、神に打たれているのに、それを悟らず、しもべ自身の罪のために打たれていると思っていたのです。しかし、彼はながめている者たちの罪を背負って苦しまれたのです(マタイ8:17)。
しかし、イスラエル人はこのことを理解せず、しもべの苦しみは、神から下った神を冒瀆したことに対する刑罰だと、受けとめていたのです。しもべは自分自身の罪のために苦しみを受けたのであって、他の人々の身代わりとなったのだとは考えなかったのです。
5節になると、イスラエル人はしもべが「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」ことを告白し、しもべの死が自分たちの身代わりの死であることを知り、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」ことを受け入れたのです。
6節、メシヤは自分自身の罪のために死んだのではなく、「主が、私たちのすべての咎を彼に負わせたのである」ことを信じるに至るのです。しもべが死なれたのは、彼を拒んで、嘲り、辱しめていた自分のために身代わりとなって死んでくださったのです。
この節で使われている「私たち」という言葉は、イザヤの時代の人々からすると、イザヤはユダヤ人だったので、ユダヤ人を指していたことは明らかですが、このキリストの救いの預言が、異邦人にまで及んでいることは、預言的意味では「私たち」はユダ人だけでなく、主イエスを信じるすべての異邦人も含まれていることは明らかです。

7~9節、第四の声、イザヤは主のしもべの死の状況を語っています。
しもべの服従・・・彼は痛めつけられ、彼は苦しんだが、口を開かない。
それはしいたげられた時、主のしもべは、「死に至るまでご自分を卑しくし、御父に従われたことです。」(ピリピ2:8)。
7節、しもべには罪はありませんが、不正な裁判に際しても、彼は黙して、これを忍ばれます。これは、主イエスがユダヤ人の不正な裁判と、ローマ人の裁判の両方で、沈黙された態度と一致します(マタイ26:63、27:12~14、ルカ23:9)。ご自分に向けられた数々の告発に対して、イエスは一言も反論しませんでした。
これに対して、イスラエル人は自分たちの罪が告発されると、黙っていないで、迫害を始めたのです。
しかし、しもべはへりくだって、苦しみと、不正な裁判と残酷な扱いを耐え忍んで受けられたのです。自分を弁護する反論や不満を一切語られなかったのです。
8節、しもべは裁判にかけられ、十字架刑の宣告を受けられます。
しもべは「生ける者の地から絶たれた。」即ち、彼が法的処刑を受けたのは、「わたしの民のそむきの罪のため」だったと言っています。民のそむきの罪のために十字架刑にかけられたのです。ここで小羊は、不当な扱いの中にあって、沈黙を守り、生ける者の地から絶たれるためにひかれて行き、人々の贖いとなられます。しもべは人の咎のために打たれた贖いの小羊です。
「そむきの罪」とは、ユダヤの律法の違反を意味することです。
「彼(メシヤ)」は、「わたしの民(イスラエル)」とは別の存在です。
「わたしの民」という言葉は、旧新約聖書の両方で、イスラエルを指しています。メシヤはそのイスラエル人のねたみと憎しみと怒りの罪によって殺されるのです。ここで初めてメシヤが殺されることが明言されています。これまでメシヤが苦難を受けることは、何度も語られていましたが、殺されることは明らかにされていませんでした。メシヤ預言は徐々に漸進的に明らかにされてきたのです。
9節、彼に罪はありませんが、彼の死は、富める者、悪人と数えられる死です。ユダヤ人の支配者たちは、このしもべを罪人として、不名誉な埋葬をすべきだと考えていたけれど、主なる神のうるわしい摂理によって、富める者の新しい墓に葬られたのです(マタイ27:57~60)。
犯罪人として処刑されたならば、犯罪者として葬られるのが当然のことです。しかし、不正と侮辱の中で処刑されたメシヤですが、富む人の墓に葬られました。主イエスは十字架から取り下ろされると金持ちのアリマタヤのヨセフの墓に葬られました(マタイ27:57~60.)。神がこのことを命じられたのは、「その口に欺きはなかった」からです。
しもべは罪人の身代わりとなって十字架にかかりましたが、神の義は彼を三日目によみがえらせたのです。

10~12節、第五の声、再び、神が語られます。・・・しもべの報酬
10節、「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」しもべがこの苦難を受けることによって、しもべの従順により、多くの者が義に導かれることを主はみこころとされるからです。それは、神の永遠のご計画です。そして苦難の悲嘆と死の先に、復活が示されており、しもべは多くの霊の子孫、即ち、贖われた神の教会の聖なる者たちを見て、栄誉ある御座に着かれるのです。
神は、最終的決断を下され、宣告された神のご目的に確証を与え、しもべに大いなる光栄を与えます。
11節、「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」は、七十人訳では、「その苦しみの最中で、彼は光を見る。」と訳しており、死海写本もこれを支持しています(へブル12:2)。
「その知識によって多くの人を義とし、」は、救い主、また、しもべとして、メシヤが持っておられる神のみ旨に関して、神の義に関して、また救いの道に関しての知識のことです。そして、人にその救いが分け与えられる時、神の道について理解が与えられ、信仰を生じさせ、それによってたましいを救うメシヤについての体験的知識です。
多くの不義なる者に代わって、一人の正しい者である「しもべ」は身代わりとして、多くの者を義とし、彼らのために絶えずとりなしをされます(へブル7:25)。
12節、「彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」は、しもべに与えられる勝利の結果を示しています。
このように、この部分は、神の語りかけによって始まり、神の語りかけによって締め括られています。
イザヤは、主は私たちにご自分の意志を伝えるご人格の神であり、耳は聞こえず、口もきけない、異教の偶像と異なることを、はっきりさせています。

〔53章中の身代わりの受難についての12の注意点〕
①私たちの病を負い、
②私たちの痛み(悲しみ)をにない、
③私たちのそむきの罪(咎)のために刺し通され、、
④私たちの咎(不義)のために砕かれ、
⑤平安のために懲らしめられ、
⑥いやしのための打ち傷、
⑦主は、私たちすべての咎(不義)をしもべの上に置き、
⑧民のそむきの罪(咎)のために打たれ、
⑨主はしもべを砕くのをみこころとし、
⑩自分のいのちを罪過のためのいけにえとする
⑪彼らの咎(不義)を負う、
⑫多くの人の罪を負う。

〔しもべの受難は、なだめの供え物〕
「罪を負う」ということばが示す四つのことが、この真理を証明しています。
1、6節、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
2、10節、「罪過のためのいけにえとするなら」
3、11節、「わたしの正しいしもべは・・・彼らの咎を彼がになう。」
4、12節、「彼は多くの人の罪を負う」(参考 コリント第二5:21)

〔53章と新約聖書の聖句との対照(キリストによって成就したイザヤ書53章の預言)〕
1~3節、人間のおろかな、あさはかな判断
1節、「私たちの聞いたことを、だれが信じたのか。」・・・ヨハネ12:37「彼らはイエスを信じなかった。」
人は、この苦難のしもべの預言を信じないで来ました。
私たちが話したメッセージを、だれが信じて、受け入れて来たか。
神の偉大さを、苦難のしもべと一致させることは、人の知恵と力ではできません。
人は、ある時には、「あなたは正しい生活をしている。」と言い、別の時には、「あなたは、
罪を犯している。」と言い、定まりがない。
ここでは、罪に目覚めて、悔い改めている良心を持っている人が、認めています。
ヨハネは、このイザヤの預言を引用して、主イエスのみことばを聞いても、悟らず、信じ
なかった人々に対して、語っています(ヨハネ12:37~43)。
「主の御腕は、だれに現われたのか。」・・・マタイ11:25「幼子たちに現わしてくださいました。」
「主の御腕は、だれに現われたのか。」の「腕」は、ヘブル語の「ゼロア」です。
これは、人間に働かれる神の全能を現わしています。この永遠の神の御腕は、捕われ人を解放し、救われる神を示しています。
2節は、その説明です。
2節、「彼は主の前に若枝のように芽生え、・・・ヨハネ15:1「わたしはまことのぶどうの木であり」
「砂漠の地から出る根のように育った。」・・・ルカ2:51、52「イエスは・・・両親に仕えられた。イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり・・・」
「彼は・・・育った。」は、イザヤは預言によって、将来に起きる出来事を、すでに起こっている出来事であるかのように、語っています。イザヤにとっては、主のしもべの苦難は、約七百年後に起きることでしたが、主はすでに歴史的事実として、語っているのです。
「主の前に」とは、「神の見ておられる前で、神のみこころと目的に従って」という意味です。
「若枝」は、ヘブル語の「ヨネク」で、「吸う」という意味の動詞の「ヤナク」から派生した語です。それ故、この語の意味するところは、「乳を吸う乳児」のことです。これが植物に用いられる場合、勢いよく養分を吸い上げる新芽や若枝を指しています。
イザヤは、ここでは、切り倒された木の切り株から生え出た「若枝」を指しています。イザヤが、先にメシヤをエッサイの根株から生え出た「新芽」(11:1)と言っています。このように、メシヤは、木の切り株から生え出て来る若枝のように育つのです。
この若枝の表現も、イザヤの預言が、イザヤ自身一人のものであるという、イザヤ書の統一性の証拠となっています。
「砂漠の地から出る根のように」とは、神の木は、生えてきそうもない地で、芽を出し、成長すると言う真理の事実を示しています。
ここで用いられている「根」は、ヘブル語の「ショレシュ」です。「苦難のしもべ〈メシヤ〉」をイザヤは、神であり、人である人格の若枝であり、同時に根としています。彼は、「砂漠の地(乾き切った地、ヘブル語の「エレス・シヤハ」)」に育つのです。イザヤは、メシヤが辺鄙な地、あまり重要でない地に来られると言っています。
パレスチナは、狭い地域であり、さらに小さいユダヤのベツレヘム、即ち、最も小さい取るに足りない村にメシヤは生まれ、ナザレの貧しい両親のもとで、神の前に成長されたのです。
2節、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」・・・ピリピ2:7、8「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、・・・自分を卑しくし・・・」
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく」メシヤには、人から賞賛を受けるような威厳のある王の姿もなかったのです。主イエスの周りの人々は、主イエスを見て、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」言ったのです(ヨハネ1:46)。彼らにとって、主イエスは、何の魅力もない、ただのナザレの田舎者に過ぎない者にしか思えなかったのです。
「私たちが慕うよう見ばえもない。」このしもべには、外見的には魅力がなく、美しい外見の姿、「見ばえ」(ヘブル語は、マレハ)がありません。
3節、「彼はさげすまれ、・・・マタイ27:31「イエスをからかったあげく」、39節「ののしって」
人々からのけ者にされ、・・・ヨハネ18:40「この人ではない。バラバだ。」
悲しみの人で・・・マルコ14:34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」
病を知っていた。・・・ヨハネ11:35「イエスは涙を流された。」
人が顔をそむけるほどさげすまれ、・・・ヨハネ5:40「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
私たちも彼を尊ばなかった。」・・・コリント第一1:23「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう。」
3節、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ」ここに使われているヘブル語は、「ニブ
ゼハ」軽蔑を持ってながめられることと、
「ハデエル」捨てられる(マタイ26:31、56、ヨハネ16:32)です。
悲しみと苦しみの極みは、しばしば孤独です。
第一に、支配者たちからさげすまれ、
第二に、ユダヤの群衆からさげすまれ、
第三に、弟子たちから捨てられたのです。
こうして、主イエスは、ひとりで悲しみの道(ドロローサ)を歩まれたのです。
「悲しみの人」とは、痛みを知る人です。ヘブル語では、「イシュ・マケ・オボテ」
です。主イエスの身体は、痛みを敏感に感じ取る、完全な人間です。イザヤは、そのことを証言したのです。
「病を知っていた。」は、ヘブル語で「イェディア・ホリ」で、私たちの病や弱さに同情
してくださるお方です(へブル2:18、4:15)。
「人が顔をそむけるほどさげすまれ」は、見ることができないほど、しもべは虐待され、
顔をそむけられていたのです。
「私たちも彼を尊ばなかった。」私たちも、主のしもべを自分の救い主とは知らずに、大
切な、重要なお方と、全然、受け留めていなかったのです(ヨハネ1:10、11)。
私たちは、ご自分を神だと主張する主のしもべを、無視し、拒否し、孤立させ、神を
冒瀆する狂人だと、思い込んでいたのです。それ故、だれも彼を信じようとせず、受け入れなかったのです。

4~6節、身代わりの受難
4節、「まことに、彼は私たちの病を負い」・・・マタイ8:17「これは、預言者イザヤ通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」
私たちの痛みをになった。・・・ヨハネ11:38「イエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、」
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」・・・ルカ23:35「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
4節、「まことに」は、苦しんでおられるお方に、注目させようとすることばです。
「彼は私たちの病を負い、」彼が担われた病は、私たちの病です。
彼が受けられた痛みは、私たちの痛みです。「痛み」は、ヘブル語の「オライーム」で、特定の病を表わしています。
しかし、私たちは、「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだ」と思っていたのです。「彼は罰せられたのだと思った」のは、人間の判断、評価が、人間の知恵によって、間違っていたからです。
「神に打たれた」は、私たちが、間違って、彼が神の刑罰を受けて、打たれているのだと、誤った判断をしたことです。
このように、歴代の人間は、自分の知恵によって、主のしもべの苦難を、間違って評価しているのです。
「苦しめられた」とは、辱しめられ、おとしめられ、卑しめられた、という意味です。
「になった。」は、ヘブル語の「ナサ」で、「取り上げて、運び去る」という意味です(マタイ8:17、コロサイ2:14)。イエス・キリストは、十字架によって、私の罪をになって(身代わりになって負って)くださったのです。
5節、「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、・・・ペテロ第一3:18「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」
私たちの咎のために砕かれた。・・・ヨハネ19:1「ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、・・・コロサイ1:20「その十字架の血によって平和をつくり」
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」・・・ペテロ第一2:24「キリスト打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」
主の死の真相は、私たちのそむきのために、主のしもべが刺し通され、その打ち傷によ
って、私たちが救われ、いやされたことです。
これが、身代わりの贖いです。
「刺し通され」のへブル語は、「メホラル」で、「実際に釘づけられる」ことを意味して
います。
「そむきの罪」は、神への反逆です。神への反逆性は、人間のすべての罪の根本的性質
です。それ故、「彼は、私たちの神への反逆のために、釘づけられた」のです。私の罪のために、主のしもべが、身代わりとなって、苦難を受けられたのです。
「私たちの咎のために砕かれた。」は、贖い主が、私たちの「生まれながら持っている歪んだ性質」のために、打ち砕かれたことを示しています。
「砕かれた」は、ヘブル語の「メダッカー」で、完全に押しつぶされ、粉々にされるという意味です。
「咎」と訳されている語は、ヘブル語の「アウォノテ」で、「不義」だけでなく、「ねじれ、歪んだ不正」を意味しています。
罪の原理は、根本的に救い難い邪悪な性質です。
「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」、「懲らしめ」は、正しい道に引き戻そうとする懲戒的な、刑罰の苦しみです。
「平安(シャローム)」は、健全や、幸福や、繁栄や、完全さを含んでいます。
「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」を直訳すると、「それは、私たちのためにいやされた。」となります。主のしもべの身代わりの苦しみは、贖いを与えるものであり、いやしをもたらすものという意味です。
6節、「私たちはみな、羊のようにさまよい、」・・・ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」
「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」・・・ピリピ2:21「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」
「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」・・・コリント第二5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」
「私たちはみな(ヘブル語でクラヌ)」は、「私たち全員」、「人間の世界全体」を示し
ます。
「さまよい(タアハ)」は、「道を外れて迷い、問題を起こす」ことを意味しています。
イザヤは、人間の振る舞いを、羊飼いのいない羊のように、いつも迷い、歩き回り、無防
備に、どこに向かっているのか、分からなくなってしまっていると、記したのです。
この節は、悔い改めたイスラエルの告白でもあり(詩篇119:176)、
悔い改めた人間の告白でもあります(ペテロ第一2:25)。
主イエスによっても示されています(マタイ9:36)。
「おのおの自分かってな道に向かって行った。」人は、神の道より、自分中心の道を好むからです。自分の欲と願いに、好んで従い、その知性と意志は、利己的になっています。
罪の性質を残している人は、自分を満足させる生活を送ろうとしています。これは、すべ
ての人に共通している罪です。
「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」神の御子は苦難のしもべとなり、
身代わりの贖いを与え、人々の咎を身代わりに負わせられました。それ以来、主のしもべの身代わりの苦しみが、人々の最も高価な救いの恵みをもたらすものとなったのです。
神は、正しい者を、悪者と共に罰することはしません(創世紀18:25)。しかし、悪者の
ために身代わりとなって受ける、正しいお方の苦しみは、神に受け入れられるのです(マ
ルコ10:45)。

7~9節、屈辱の忍耐
ここで、イザヤは主イエスの十字架の預言を記しています。
7節、「彼は痛めつけられた。」・・・ルカ22:44「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。」・・・ヨハネ19:5「イエスは、いばらの冠・・・を着け」
「彼は苦しんだが、口を開かない。」・・・ペテロ第一2:23「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」
「ほふり場に引かれて行く羊のように、」・・・マタイ27:31「十字架につけるために連れ出した。」
「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」・・・マタイ27:14「イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。」
7節の、「彼は痛めつけられた。」は、不当な虐待を受けられたことです。
「彼は苦しんだ」は、彼は、へりくだられて、辱しめの苦しみを受けられたことです。
彼が、苦しみを自発的に受けられているのは、柔和なキリストのご性質と、贖いのご計画
を表わしています。キリストは、カヤパのしもべたちと、ピラトの兵士たちの虐待を受け
られたのです。
「口を開かない。」イザヤは、7節の中で、二回「口を開かない」と記しています。
主が、口を開かれなかったのは、
第一に、ご自分の立場を、弁護、主張されなかった時、
第二は、裁判が偽善者たちによって行なわれていたので、どんな弁明をしても意味がなかったからです。そして主の贖いのご計画が、成し遂げられていたからです。
主は、ご自身が救い主であられることを証言される時だけ、口を開かれました。
しかし、ヘロデの前では、全く何も言われませんでした。
「ほふり場に引かれて行く羊のように」の「引かれて行く」のへブル語は「ユバアル」で、「主のしもべが、いけにえとしてほふられる祭壇に連れて行かれる」ことを示しています(ヨハネ1:36、ヨハネの黙示録5:12)。
これは、主イエスに対して、審理をする前に、予め定められていた死刑の宣告です。そ
れ故、主イエスがいけにえの小羊として、定められていたのです。
「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」この主のしもべは、不当な裁判の中を黙
って、耐えられたのです。
8節、「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。」・・・ヨハネ18:24「アンナスはイエスを縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。」
「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。」・・・ヨハネ18:20~21「わたしは世に向かって公然と話しました。・・・彼らならわたしが話した事がらを知っています。」
「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」・・・使徒の働き2:23「あなたがたは・・・不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
8節の「しいたげと、さばきによって、彼は取去られた。」は、暴虐な犯罪行為によって、しもべの生命は奪われたのです。主イエスの裁判と十字架の死は、不法の犯罪行為になると言っています。彼らは、不当な偽りの裁判と、暴力によって、主のしもべを殺したのです。
「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。」世の人の無関心と群衆の冷淡な態度は、今も変わっていません。主のしもべの運命について、関心を示している人はいません。
さばく者たちは、囚人とみなされるお方の真相を、明らかにすることに、関心がなかったのです。ただ、邪魔になる彼を取り除くことだけに、関心を集中させたのです。
「彼は、わたしの民のそむきの罪のために(身代わりとなって)打ちのめされて、生ける者の地から絶たれたのです。」
(当時の習慣によれば、死刑の宣告を受けた者がいる時には、刑の執行の前に、そのことを民衆に公告し、もし本人の無罪を証明できる者がいれば、その人に証明する機会を与えました。しかしイエスの処刑の前には、この公告は行なわれませんでした。これだけでもイエスの裁判と十字架の執行とが不正であったことは明らかです。)
9節、「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。」・・・マタイ27:57~60「アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。・・・ヨセフはそれを取り下ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。・・・」
(ユダヤ人たちはイエスを二人の犯罪人と共に罪人の墓に埋葬するはずでした。しかしその時までひそかに信じていたアリマタヤの金持ちのヨセフが、ピラトのもとに行って、イエスの死体を求め、敬虔な手でイエスを自分のために造った新しい墓に葬った。これは福音書に記されていますが、それよりも約七百年も前に、これらの出来事はすでにイザヤによって預言されていたのです。)
9節、「彼は暴虐を行なわず」・・・ペテロ第一2:22「キリストは罪を犯したことがなく」
「その口に欺きはなかった。」・・・ペテロ第一2:22「その口に何の偽りも見い出されませんでした。」
9節の「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、」「悪者ども」は、ヘブル語の「レシャム」
で、「不敬虔な者」「罪ある人」を意味します。
葬った人々は、このしもべに敬意を抱いたけれど、メシヤとして葬ったのではありませ
ん。不正なしいたげによって、殺された者として、悲しみをもって、彼を葬ったのです。
屈辱は墓の中まで、追いかけて行ったのです。彼の死は、犯罪者としての死刑でした。
「彼は富む者とともに葬られた。」彼の悲惨な死は葬りにおいて、富む者と一緒であるとい
う預言です。アリマタヤのヨセフは富む人で、新しく造られた彼の墓に主イエスは葬られ
たのです。この「富む者」を、「極悪人」と解釈する人もいますが、ヘブル語の「アシル」
で、確かに「富む者」を意味しています。
「彼は暴虐を行なわず」(ヨブ16:17)は、彼は、十字架刑を受けるに価する罪は、何も
行なっていないことを意味しています。
「その口に欺きはなかった。」彼は口によっても、全く罪のないお方です。
人間は、神の聖なるお方を不当に殺すことによって、神に対する恨みをはらそうとした
です。利己的な悪が、公正さを装おうとする時、自分の偽善の悪をあらわに示すのです。

10~12節、神によるしもべの高揚
10節、「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。」・・・ローマ8:32「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」
「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、」・・・ヨハネ第一2:2「この方こそ、私たちの罪のための、-―なだめの供え物なのです。」
「彼は末長く、」・・・ヨハネ3:16「永遠のいのちを持つためである。」
「子孫を見ることができ、」・・・ガラテヤ3:7「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」
「主のみこころは彼によって成し遂げられる。」・・・ヨハネ17:4「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
10節、「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。」
死海写本は、次のようになっています。「しかしヤーウェは、彼を砕くことを喜ばれ、彼
を刺し通された。」神は、そのような極悪非道が行なわれることを許されたのです。
「もし、彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら」の「いのち」は、ヘ
ブル語の「ネフェシュ」で、「人物」という意味です。
ベシッタ写本は、「彼は自分のいのちを罪のための供え物にした。」となっており、
ヘブル語聖書では、「まことに彼は、自らを罪のための供え物として与えられた」となって
います。
「いけにえ(ヘブル語のアシャム)」は、「罪過のためのいけにえ」を指しています(レビ
記5:14~6:7、7:1~7)
彼は末長く、子孫を見ることができ、彼は死ぬことによって生きるからです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
「主のみこころは、彼によって成し遂げられる。」の「主のみこころ(へブル語のヘフェ
ス)」は、「目的」という意味です。
このしもべの苦しみによって、永遠の神のご目的は成し遂げられ、彼の満足は、しもべ
が成し遂げた救いのみわざを見ること(証人となること)です。
しもべにとって、主の目的が、全能の神の御手によって実現できることが満足なのです。
11、12節は、最終目的を記しています。
11節、「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て,満足する。」・・・へブル12:2「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び・・・」
「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、」・・ヨハネ17:3「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
「彼らの咎を彼がになう。」・・・ペテロ第一2:24「そして自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。」
11節の、「彼は自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て」は、彼の苦しみは神のご目的のために受けておられることを示しています。むなしくはありません。
「満足する」、なぜなら、これから後、しもべの十字架が救いの中心根拠となり、キリストの死が、すべての人の救いの土台となるからです。彼は、彼の十字架の死が、救いをもたらす唯一の根拠であることに、満足されるのです。
「その知識によって」以下のことを心に留めないと、誤解される危険があります。
「知識(ヘブル語で、ベドハト)」は、「彼を知る知識」、「彼に関する知識」を示します。
人が救われるのは、個人的に贖い主を受け入れて、体験として救い主を知ることです。
罪人は、キリストについての知識を学んで、啓発されることによって、救われるのではありません。キリストの贖いのいけにえを、自分の罪のためと信じて受け入れることによって、救われるのです。イエス・キリストの身代わりの十字架を、「私」のためと、個人的に信じて、キリストを自分の救い主として受け入れることによって、救われるのです。
しもべは御父のみこころを成し遂げることによって、多くの人に、ご自分の義を分かち
与えられます。
「わたしの正しいしもべ」は、神が語っておられます。神が、ご自身のしもべが正しいことを、証明されています。キリストは、力ある勝利者となられます。ここで、神と罪人に対するしもべの奉仕は、頂点の完成に達します。
彼は、神ご自身に対して正しい方であり、多くの人々にも、ご自分の義を与えられ、罪人の不義を彼らの代わりに、になわれるからです(ペテロ第一3:18)。
「多くの人を義とする」は、しもべを信じるすべての人々に、ご自身の義を与えることです。主を信じるすべての人々が、このお方を信じることによって、永遠のいのちを受けるのです。なぜなら、「彼らの咎を彼がになう」からです。しもべがになわれたのは、罪人の罪です。これを信じる者は、すべて義と認められるのです。
12節、「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、」・・・ピリピ2:9~11「それ故、神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
「彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」・・・エペソ4:8「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
へブル1:2「神は、御子を万物の相続者とし、」
「彼が自分のいのちを死に明け渡し、」・・・ヨハネ10:15「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」
「そむいた人たちとともに数えられたからである。」・・・マルコ15:27「また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」
「彼は多くの人の罪を負い、」・・・へブル9:28「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自身をささげられました。」
「そむいた人たちのためにとりなしをする。」・・・ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。」
・・・へブル7:25「キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです。」
・・・ローマ8:34「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
12節、「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、」主は人々の贖いとして、ご自身を与えることによって、多くの人々を与えられたのです(マルコ10:43~45)。
「彼は強者たち(多くの者たち)を分捕り物としてわかちとる。」神は、偉大な者に与えられる分け前を、しもべに与えられます。
パウロは、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:9)
神は、その理由を述べています。
「彼が自分のいのちを死に明け渡した」からです。
しもべは最も崇高ないけにえを人間(罪人)のために、身代わりとなって、払われたのです。それによって、すべての人々の救いと、信仰と感謝が、ご自分に向けられるようにされたのです。
「そむいた人たちとともに数えられたからである。」彼は、ご自分が神への反逆者の中に数えられたのです。
サンヘドリン(ユダヤの議会)は、主イエスを神に対する冒瀆罪であると判決を下しました。それは、主イエスが、ご自分が救い主であり、神の唯一の御子と断言されたからです(マルコ14:61~64、ルカ22:37)。
「彼は多くの人の罪を負い」の「負い」のへブル語「ナサ」は、「持ち上げて、運び去る。」という意味です。
「多くの人」のへブル語は「ラビーム」で、「総数、大衆」を意味します。
しもべは、世の罪人のために、ご自身が身代わりとなって、十字架にかけられたのです。
神の御子は、人の罪に対する刑罰として、十字架の死を受けられたのです。これは、人の罪に対する神の怒りと憎しみをを表わし、キリストを信じる新しい人類の霊的基礎を据え、神の国を建設して行くことを始められたのです。信じる者たちは、確かに神の愛をあかししています。
「そむいた人たちのためにとりなしをする。」主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。」と叫ばれました。彼は、自分を殺す者たちを、ののしりつつ、神に復讐を求めつつ、死んだのではありません。むしろ、彼らの罪の赦しをとりなされたのです。
イザヤにとって、彼が預言したしもべは、まだ約七百年も未来に来られるお方です。この預言は、ナザレのイエス・キリストの受肉降誕と、十字架の死によって、細部に至るまで、完全に成就したのです。